角打ちとセレンディピティとタイムスリップ
昭和感の残る酒店で地味に立ち呑みなど
さて、少々古い話になりますが、その日私が足を踏み入れたのは、恵比寿にある某酒店。店名は、そうですね桜年酒店とでもしておきましょう。通りに面してはいても店内はうす暗く、いかにも古くからの酒屋然としたおもむき。光や高温を嫌う日本酒の性質を考えれば、これは真っ当(まっとう)な商売をしてきた証(あかし)でしょうな。とはいっても最近は明るい室内に温度、調光管理の先端機能を備えた酒店もあるようで。なんでも昔ながらがいいというわけではございません。
めざす角打ちはというと脇へ回ったあたり
なんとも奥ゆかしいというか、表立って居酒屋でございとしゃしゃりでることない“ひっそり感”がいいじゃありませんか。さて、このウチの角打ちスペースは、と中をのぞけば、ドアサイズのノレンで表店(おもてみせ)と仕切られたほどよい狭さ。以前はバックヤードでもあったのかしら。いっそ勘定台(かんじょうだい)と呼びたい使い込んで黒光りしたカウンター、床は土間といいたいところですが、さすがそれは…。ふつうにコンクリートです。
そういえば、この先のガーデンプレイスのそばには、床におがくずをまいた英国風パブがあったような。エールや食べ物がこぼれ落ちてもいいようにとの実用的な工夫だったのでしょうが、一日働いて疲れた足には、あのほっとするような心地よさが結構なものでございました。
そこらへんにあるものをつまみに軽くいっぱい
さて、ここで純米大吟醸だの、当節はやりの古酒をなどとは申しますまい。恵比寿といえばビールが本寸法(ほんすんぽう)。暑くても寒くてもビール、ビール。お膝元に敬意をはらって黒ラベル。角打ちらしく缶ですな。店の冷蔵庫から勝手に出しの、料金払いので、さてつまみはどうすべぇかと見渡すと。ありますものは、缶詰に、袋入りの乾き物、おなじみの魚肉ソーセージやチーカマ、チビ助サラミ。オイルサーディン?結構ですなぁ。赤ウインナー?これはこれは。ですがね、オイルサーディンはできればガス火に直にかけて油がプチプチいってるやつをいきたいし、赤ウインナーはさっと塩してサラダ油で炒めた安っぽさが身上(しんじょう)。
それなりのこだわりだって
こうなると無理なんです。角打ちはあくまでも店頭商売のお次いで、顧客サービス、余技。いらっしゃいまし、ちょうだい、毎度ごひいきに。の売り買いがご商売で料理屋じゃないんです。
だからと力をいれるつもりはありません。手前勝手なこだわりですが、角打ちのつまみは手をかけてはいけないような気がいたします。あるがまま、ナチュラル、取って出し、とりあえずの行列。そこがいいんです。
いってみれば大人の駄菓子屋ってところですか。
少ないおこずかいをあれでもない、いやこっちの方がよさそうだの、こんどこそ当たりをとくじ引きにいどんだり。期待と興奮と後悔にいろどられた買い食いの愉しさ。ノスタルジック。とまぁ。勝手なおっさんロマンはさておき、そのままですぐ食べられるものといえば…。
頭の中では勝手におはなしが進んでまいります
もう止まりません、妄想が滅多矢鱈(めったやたら)と動き出します。「すいませんコンビーフ、ってあります?」私がこう声をかける。
するとお店のおねぇさんがこう答える「コンビーフじゃなくてコンミートなんですけどいいですか」この気遣い、こっちを見つめるその目、キュートなほほえみ。そういや最前(さいぜん)から、どうもその視線が気になってたんだ。こりゃひょっとしておねぇさん私のこと…。いっそオーダーのついでにLINEの交換でもしましょうか。どうも思い込みってのは勝手に独り歩きするようで、切りがないねぇどうにも。
今の子どもは喜ばない?あの台形タイプの缶詰は
おや?棚の片隅にちんまりとある金属の物体は?なんか見おぼえがあるような。いや、まさかあれは懐かしのあれですか。子供時代の大好物にして、ここ10年ほど100円ショップからも姿を消した例のやつ。ヒントです。萩原健一、朝食、缶詰。といえば答えは?さぁどうだ。まだわからない?ではサービス、ペントハウス、代々木でどうだ。わかった方からお答えください。はいみなさん大正解。高齢者率お高い
ですねぇ。そうです一定の世代以上及び沖縄県の方々大絶賛のあのコンビーフです。まさかねここで出会うとは。角打ちにコンビーフの缶詰。これほど似合いのカップリング、いやさマリアージュもあったもんじゃありません。これぞ奇跡の出会い、セレンディピタスな瞬間というやつです。
さて夢から覚めてみますというと
目の前にいるのはおねぇさんじゃなくっておばさんです。「はいコンビーフ350円」ってね。そこはそれでいいでしょう。どうにも安いねそれにしても。あっニューコンミート※1ね。これ以前はニューコンビーフっていってたんですよ。でも馬肉とかもはいってるからビーフじゃないだろってことでミートになったとか。細かいこというねJASも。
ふ〜ん、なんだいこりゃあ。あの巻取りのオープナーというか、鍵みたいなやつで開けるんじゃないんだ。シール貼りだよこれ。どうにも横着(おうちゃく)な仕様だねぇ。まっとはいえコンビーフに罪はありません。おばさんじゃなかった「おねぇさんウスターソースくださいな」。そうそうこの皿に開けたお肉ちゃんにソースをかけてと、うん昭和だねぇ。これがごちそうだった時代だってあったんです。
コンビーフあるあるもまた楽し
「ねぇこっちもコンビーフ」向こうから声がかかりましたよ。同世代かな?いやちょっと若いか。小さくうなずくようにこちらを向いて「父が好きだったんですよ、これのもっと大きい缶があったでしょ。あれをくるくるやりながら開けるのが僕の役目でね」気さくな人だね、多分いい人だ、うんそれに違いない。
「あぁそうそう、ときどき途中でちぎれたりしてね。そん時はペンチかなんかで開けるの」と私。「ありましたよね、うん」とりとめのないあるある話。そのまま会話が続くかと思えば、お互いに軽く会釈してまた自分だけの時間に戻ったり。結構です、嫌いじゃありません。
まくら缶って知ってますか
先きほどの方のおっしゃるとおり子供時分のコンビーフといえばもっと大きな缶でした。大人の握りこぶしサイズの専用缶ね。枕缶っていいましたっけ、コンビーフ以外では見たことがありません。国分にノザキでしょ、明治屋、それにアメリカのリビーね。英語しか書いてないところがなんか特別感があって、塩味もきついし、脂もちょっとくどかったけどリビーね、ありました
小学生だったあの時間へ
そういえばあの缶の中に、腕時計を仕込んで密輸するというドラマのシーンを思い出しましたよ。なるほどあの大きな缶ならそういうこともあるのか。と子供心にも妙に納得したものでした。アメリカからの密輸品という設定だったことは記憶していますから、ひょっとするとリビーだったんじゃないでしょうか。
もしかして私のコンビーフ好きはあの時計が欲しかったことがきっかけ?いやまさかね。
とはいうものの思い出してみればたしかに缶を開けるたびにちょっとドキドキしたような。入ってるわけないのにね。小5か小6か。まぁそのあたり、さしずめユメ見るお年頃です。
ひとときのタイムスリップに別れをつげ家路へ
やがてビールから日本酒へと進むに連れ、そういえば、そういえばと頭の中で次から次への、遠い昔の記憶や人々の顔、通り過ぎてきた時間のひとつひとつが脈絡(みゃくらく)もなく再生されていきます。軽くいっぱいのつもりで足を踏み入れた角打ちで繰り広げられる一人だけのタイムスリップ。こういう時間も悪くないものです。とはいっても長っ尻は禁物、禁物。こういう時間は帰り道にちょっと立ち寄る程度がお似合い、ご定法(じょうほう)。さて、そろそろ我が家へと足を運ぶとしましょうか。
※1
2005年のJAS法の改正以降「コンビーフ」の名称は牛肉100%の商品にだけにしか、使用できないこととなりました。馬肉など他の肉が使われている商品は「コーンドミート」と表記するよう定められました。コーンドミートのうち、馬肉と牛肉が使われており、牛肉の使用重量が合計重量の20%以上のものを「ニューコンミート」と表記することが認められています。